2、サプライズが生まれる「前」

ジェラートの日記を始めてから1ヶ月が過ぎた頃、その怪しげなお誘いはやってきた。

当時【中伊豆ぶろぐ村】なる集まりが、道の駅伊豆のへそで夕方から行われるというのだ。

主催は中伊豆ぶろぐ村の村長なる方、そしてそれにイーラパークがくっついている感じ。

あまり記憶が定かではないが、その予定されていた日は僕自身予定が入っていて参加する

事は不可能だったのだけど、「台風」で1週間ほど順延になった。それが・・・なんと

「10月18日」だったんです。ちなみに余談ですが僕が21歳でお店をOPENさせた日は10月18日。24歳で伊豆でお店をOPENしたのも10月18日。

 

そしてこの2007年10月18日 このぶろぐ村に参加する「前」にある出来事が起きていました。これは自分に取っては実は画期的な事だったんです

当時、僕は本当のことを言うと「伊豆がそこまで好きではなかった」んです。何故ならこのときで37歳、それなりにお店も展開してきたんですけど最初に伊豆に来た動機が「仕事」だったので、伊豆に住みたい訳ではなくただ単に「稼ぐ」から伊豆に来ただけなんです。だから色々な場所に仕事で出かけるのは「当たり前」の事だったんです。だから何となく「お客様」というか静岡の人って感じだったのでしょうか。当時のことを伊藤徹朗さんが「飯倉君は本当に静岡市の事しか話さなかったね」と最近おっしゃってくれますが(笑)、確かにその通りだったんですね、そのうち静岡に帰るとかって感じでした。だから変なこだわりがあって車のナンバーがずっと「静岡」だったんです。ずっとって引っ越して13年間もですよ、それは変すぎますよね。でもこの数年前くらいでしょうか、ある日実家に帰ってから来るまで伊豆へ戻る時、函南の交差点まで戻って来たら「ふぅ〜」と一息ついたんですね。

 

これは何と言うか「帰って来たなぁ」という感じだったんですが、この瞬間「あ、伊豆の人になった」と思ったんです。

こんな思いから、実はこのぶろぐ村の前にある決断をしたんです、それが「車の購入」。

日産大仁に行って何を思ったかいきなり「これ試乗していいですか」と聞いて、ちょっと

乗って「これください」と言ったんです。そしてその車を「伊豆ナンバー」にしたんです。

この日から実は結構僕の中で「伊豆」にコミットして行こうという感じが生まれていたのは確かです。だから1週間前にもしぶろぐ村というものが開かれていたら、きっと僕はいまここに居ない訳です。

しかしですよ、いきなりこのぶろぐ村なるもので自分がコミットしようなどとは思ってはいなかったです。なぜならほとんどの人に「会った事がない」んですから。行ってみるとこの日は浜松からダンディ和田さんというITコーディネーターの方がいらっしゃっていて、色々な事をレクチャーしてくれていました。ましたというのは実は僕が遅刻したからです、この日僕が教わった事で実は今でも活用しているのが「フォト蔵」なんです。これ便利なサイトですよね、

 

 

さて、このぶろぐ村で僕の横に座っていた男が、共にいまオフィスをシェアしている「神南臣之輔氏」、 ぶろぐ村村長という方は「川口敦さん」、なんと現NPOサプライズ監査役。

その他にも一緒にいた人の多くがNPOサプライズと関係してくれています。そんな人たちが集まった二次会で話合われた事が「このイーラパークというサイトをどうやって盛り上げるか」だったんです。

 

とはいえ前にも書きましたが。書いている人は「男ばかり」、一日の投稿数は「行っても150」、ぶろぐ村行っても「男ばっかり」、二次会行っても「男ばっかり」ですよ。 これどうやって盛り上げるんですか?という感じでしたね。

でも何だか不思議な「盛り上がり」があって、なんとか女性のブロガーさんを増やそうとか、◎○企画とかそれぞれが勝手に打ち出して行ったんですね。イーラパークっていうブログは不定期の固定費なしのボランティアスタッフが勝手に増殖していった感じです。当時西伊豆には良く行ったりしていたんですが、この時「あることに気がつき始めました」。

 

「机上の空論者」

誤解を招く事もあるかもしれませんが、ここからは少し「脱線」してみます。知っている方は知っているかもしれませんがそもそも僕が1度も就職をしなかったのは、20代の頃の若気の至りで本当に「頭がおかしかった」と思いますが、自分で変な自信があったのと同時に「人に指示される」事が嫌だった事、そして「自分が思った事を、報告して会議に通され yes or no」にされるのが嫌だったんですね。自分が思った事をすぐに出来ないと嫌だったから結果として、誰の元でも働かず小さいながらも「一国一城の主」でいることを選択して来たからなんです。格好いい言い方をすればこうなりますが、ただの「駄々っ子」みたいなものです。いま思えば本当に頭の悪いただの子供でした。

とはいえ、この伊豆に来てからは間違いなくある方に「コントロール」されていました。だから色々な弊害もあったし、紆余曲折もありましたがそれでも「自由」にやらせて頂いて来た方ですし、もの凄く鍛えて頂きました。この「ノック」があったから今の僕があるのは確かです。しかし、いくら鍛えて頂いても僕が自分の「アイデア」や「やる気」「負け嫌い」をそのまま描けたのは自分の「仕事」だけの事であり、その他の事に関しては全くの「机上の空論者」であったことだけは事実なんです。

例えばジェラートのメニューを新しくするのも、値段を変えるのも、レイアウトを変えるのも、僕が思った通りに全て出来ますが、この観光地に来る方に対しての全体的な「おもてなし」や施設全体での「方向性」、行政やっている「方向性」やその他に対して何かを唱えても遠吠えというか、ただの「評論家」だったんです。

そう、「ある事に気がついた」というのは机上の空論では何も動かないという事だったんです。動く「癖」というか行動パターンというか。このイーラパークで集まった「男ばっかり」という枠で、僕が考えたり他の人が考えた事を話しているだけではなく,みんなで「実行」するという選択枠が生まれて来たんです。自分の中に絶対に「ある」と思っていた事は実は「なかった」という事に気がついたんです。

この数十年間、ただひたすら「ジェラートを売る」という脳の構造しか持っていなかったので、ほとんど家に居る事はなく職場で現場で働いていた事も影響をしていたのかもしれません。だからいつの間にか自分の仕事以外は俯瞰できなくなっていたんですね。当然この時はまだ「まちづくり」というワードは僕の中に存在していなかったんです。

 

つづく