9、右脳と左脳

「ついに運命の日」がやってきます。

 

それが3月31日

 

当時、この清掃活動を僕らは「影奉仕」と名付けました。ネーミングを考えた

のは武井くんだったのですが、天城の影奉仕は時点で2回の開催、同時に

沼津の影奉仕も2回行われていました。

 

場所は違えど同じ時間に清掃活動をする、こんなにワクワクする様なことは

ないですよね、これを何らかの「形」にしないとダメだと考えていたんです

そう「組織」というものです。

いくら素晴らしい事をしていても継続出来なければ何にもなりません。

だからこそ「何かを」作らなければならないと思っていたんです。それが

「NPO」というフレームでした。

なぜNPOを選択したかというと、僕にはそんなに離れていない感覚のものだ

ったんです。フィルムコミッションというものに当時参加していたんです、

運営ではなく現場側が主でして、エキストラの人を集めたりエキストラを

やったりというような事でしたが、この活動自体がNPOというものでした。

フィルムコミッションというものに入っていた事は 僕にはもの凄く貴重な

体験でしたね。(入会した理由は伊東美咲に会えるからというミーハーな動機)

 

さてNPOを作ろうと考えたのは3月10日くらいだったと記憶していますが

その時点からイメージしていたのは、「右脳」と「左脳」というものです。

実はいまでこそ書類とか書けるようになりましたが、当時ぼくは普通の

ジェラート屋さんで、決算などの書類は出来ましたが ある「特定」の文章

は作成した事すらありませんでした。そのある特定の文章というものが

「申請書」というものです。 これは勝手な思い込みかもしれませんが

「左脳」タイプの人が得意とする分野だと感じていました。

そして当時 この影奉仕活動に参加してくれていたメンバーは右脳タイプの方

が多かったのですが、たったひとりだけ「左脳」の方がいらっしゃいました

それが 「岸本さん」という方です。


少し赤裸々に書いてみます

 

当時、僕はある決断をしていました。それは岸本さんにNPOを作りたいとお話して

断られたらこの計画はやめようと思っていた事です。 

なぜならば「ストーリー」として弱くなるからです、僕が考えていた事はこうです

 

ゴミを山の中で拾い始めると動き出した人達、これにリンクして町中で拾い始めた人がいる。

 

そしてそれはブログという見えない線で空中で繋がっていて、同じ時間に行動し始め集まって

 

いる人達はデジタルを使ってアナログを作っている。更にこれを組織化してNPOという流れと

 

なり、発起人や理事は全てブログで集まった人々で構成し、そしてNPOの申請にはその団体自

 

身が行う事で「他人任せ」にはせずに作り上げた

 

という感じです

 

確かに司法書士の方にお願いをすればNPOをつくることは簡単ですが、僕が当時思った

ことは この「他人任せ」にしないという事でした。 どうしてもこのチームで作りあげ

たという証明が欲しかったんです。前にも書いたかと思いますが、どうしても僕が気に

なっていたことは、「お客様が来ないのは世の中の景気のせいだ」「おおこれやろう!

でも予算ないからやめよう」と 何かしらの「理由」を付ける癖が存在していた事です

実際僕自身もそれを打破する方法論を持っていない状況でしたから同じような感じでし

た。しかしこの「言い訳」を跳ね返す、いえ道しるべになると僕は思っていたんですね

だからこそ左脳の人にオファーを出したんです。そして了承をして頂きこの活動が遂に

「NPO設立」に向けて動き出していく事となります。

 

当時、このNPOの代表になって頂こうと思っていたのは かたつむりの足立さんでした。

地域のリーダーでもあるし、ブログの中でも絶大なる人気、その方がTOPにいて頂き

サブには当時 婿殿であった武井君を配置。 それをサポートする形で僕や岸本さん、

そして居山くんがいるという流れ、これが理想的でした。

そしてもう一つ、理事には「天城」「西伊豆」「沼津」「伊豆の国」「富士」「長泉」

「三島」に住んでいる方になって頂こうと考えていたんです。

これにも理由がありました。当時NPOというのは やはり地域の活動の延長線上であり

その地域の人が集まって行う活動のように見えていた部分があります。これを打破する

意味でも広域で東部伊豆が繋がったというイメージを作りたかったんです。

とはいえ 既にイメージというよりもイーラパークというフレームがありましたから

何も問題はなかったのです。あとは作り上げて行くだけだったんですが、ここでいくつ

かの軌道修正を余儀なくされることになったのです。

 

 

 

つづく